「自己承認欲求」を満たそうとする余り逆に醜くなっていた私が、やっと落ち着いてきた話

思えば「自己承認欲求」に振り回された人生でした。

38歳になって、環境と価値観が変わって、ずいぶん楽になりましたが、10代20代は、ひどいもんで…随分とひどいもんだったな〜と思います。

恋愛や仕事で他者、あるいは社会から評価されることを自己評価としていたし、おそらくはセルフイメージが高かったわりにナマケモノなので、理想と現実を埋めようと喘いでいました。恋愛では承認を切らさないために不誠実になることもあったし、仕事では承認を確かにするために必要以上のできるパフォーマンスや無茶をした…。振り返るとかっこ悪いなぁ。。

「自己承認欲求」を満たそうとする余り、醜くなってしまっていた私。「自己を承認してもらう欲求」を満たそうとするのに、回り回って「自己を承認できなくなる」というのはどういうことだったんでしょう。

「私は自己承認欲求が強いから」ってことは自分の前提であまり向き合うこともなかったんですが。最近シンプルな気づき‥「社会的評価や、数値化・一般化された評価ではなく、自分、あるいは、身近でリアルな存在からの承認を大事にするほど満たされるんだなぁ〜」と感じることがあったので書きたいと思います。

「自尊感情は家族で満たす」

突然ですが、韓国ドラマにハマってます。「愛の不時着」から始まり、同じ女優さんが出ている「よくおごってくれるきれいなおねえさん」というドラマを見て、そこに出ていた、チョン・ヘインというキュートなボーイにハマったのでした。

(ドラマ「ある春の夜に」も、映画「ヨ・ユルの音楽アルバム」もめっちゃいいのでぜひ!)

チョン・ヘインは演技がとてもお上手で、繊細で切ない表情がたまらないのですよね。どんな人なんだろうとインタビューや記事を検索していたら、こんなやりとりが出てきました。

高まる人気を実感していますか?という質問に対して‥

「ネットのファンコミュニティの書き込みが増えるのを見ている。ただ、外に出歩かないので実感はなく、ずっと心が幸せとも言えない。僕は31歳の普通の人間。俳優を職業としているだけで、家では両親の息子でしかない。だから自尊感情は家で満たす。大衆の関心と愛情をもらう分、非難や様々な状況に置かれるのもよくあると思うが、それも仕事の連続として受け入れなければならないと思う。僕は一瞬でも自分をスターだと思ったことがない。周囲が俳優チョン・ヘインを作ってくれたのだ。新人の時と同じ。さすがに芝居の面では成長しているだろうけど、常に同じ場所にいる。環境は変わったけれど流されないために鞭を打つ。そうすれば自分の演技の下手さが見に染みて分かる」

https://sportsseoulweb.jp/star_topic/id=6240

「まぁ〜。なんてちゃんとしてるんざましょ♡ん、もう♡」と感心したんですが、読んだのち、しばらく経っても「自尊感情は家族で満たす」というフレーズが時々浮かんだのでした

そして、気づいたんですよね。

あ〜、私、自尊感情や自己肯定感を「社会評価」で満たそうとしていたから、あんなに辛かったんだなぁ。満たされることを知らなかったんだなぁ。と。

自己承認欲求を、家族では満たせなくなった思春期

かつては私も「家族」で自尊感情を満たしていました。でも、思春期から変わっていきました。

理由の一つは、その頃、絶対的な存在だった母が死んだこと。母から「しほちゃんすごいねぇ、素敵だねぇ」と言われることが、幼い私の生きがいだったので、世界の成り立ちが崩れるような感覚がありました。

父と兄とも高校時代から別々に住むことになったし、それ以前にしっかりコミュニケーションをとって向き合うということを行えませんでした。

まぁきっと、母が死んでも死ななくても、父と別居してもしなくても、10代半ばくらいで、家族からの承認だけでは、自分を満たせなくなっていたのでしょう。

ただ私の場合、家族からの承認というベースが3〜4年でスパンと消えてしまったので、その分承認欲求をなんとか別から満たさねば!!!という欲求がより強くなったのでした。

そこで向かったのが、恋愛・勉強・仕事でした。

数値化可能、交換可能な「能力」で認めてもらうことが安心だった

恋愛、勉強、仕事の私にとっての魅力は、ある程度評価が「数値化」「一般化」できるので、もしもその場がダメになった時も、「乗り換え」「交換」ができるということにありました。

恋愛で言うと、いわゆる女子力や恋愛スキルを上げておけば、一つダメになっても次に移れる。

勉強も仕事も、がんばれば、そこそこ評価してもらえて、わかりやすい。駆け引きが少ない。うまく行かなくて転職しても、スキルは生かしようがあるし、ゼロにはなりにくい。

と言うことで、恋愛・仕事に執着する日々を送っていたのでした。

働いてた頃。今と違う〜!!

がんばってもあがいても満たされなかった理由

そんな日々がどうだったかと言うと、辛かった。ちっとも満たされなかった。性格悪かったと思うし、アル中気味だったし、何かとギリギリだったな、と。

なんでだろうと今思うと、シンプルに、自分で自分を認めていなかったからだろうな、と。自分の中での自分の価値が低い余り、自分で自分を認めることを重視していなかったのかもしれません。

自己承認欲求を、自分から遠い広い社会に求め、数値化されたところでで満たそうとしてしまってたから、逆に、自分自身では自分を認められなくなってた。「なにやってんだろう」感がつきまとい、もっともっとと求め続ける。

自己承認欲求を近いところで満たせる環境

そんな20代に比べて、今は、ずいぶん楽になりました!

何が変わったかと言うと、第一には家族ができたことが大きい。

まさしさんと出会い、結婚して、恋愛を交換可能なものとする価値も必要も感じなくなり、関係から安心を感じるようになりました。

私を必要とする、子どもという存在が生まれた。

でも、正直、家族だけで承認欲求を満たすのは、無理だし危険なんじゃないかと、個人的には思います

狭くて、お互いに求めるものが大きくなりすぎ、逆にうまくいかない気がする。

子どもと過ごすのは最高に楽しいけど、母、妻としての自分が大きくなりすぎると辛くなる気がする

競争や契約をベースとしない、価値観でつながるコミュニティに気軽にアクセスできる環境

私が楽に生きれるようになった第二の要因は、競争や契約をベースにしない、価値観で繋がるコミュニティにアクセスできるようになったことがあります。

最初は、出産後に出会った「こそだてビレッジ」というコワーキングスペース。子育て中の大人たちが集い、子育てだけじゃなく、暮らしや一人の人間としての人生を共有する場になっていました。そこに約2年くらい通い、ものすごく刺激をもらった気がするし、そこで出会ったメンバーには今も支えられ続けています。

ここで「自分の心・考え」を問われ、語ることの喜びを教えてもらえた

そして今は、やっぱり私たちのシェアハウス「暮らす実験室 IKI」で暮らしていることが大きい。

承認がどうとかそんなこと、考えなくなった

最近は承認とかどうとか、考えなくなったなぁと思います。

多分理由は、さびしくないっていうシンプルなことにある気がします。さびしいから、承認、承認へ向かってた(誰かと一緒にいたのに、あの頃はなんであんなにさびしかったんだ?)。

今、シェアハウスでおとな8人、子ども2人の10人で暮らしてみて、みんなと、暮らし・時間・感情を、気軽に共有しあえる環境にいます。

約束せずともなんとな〜く、みんなでごはん。

感動上手、褒め上手な人が多くて、ちょっとしたことで「すごいね!」と言い合ってる。がんばらなくても、背伸びした承認がなくても、誰かと一緒にいられる。居場所がある。

誰からもわかりやすい「実績」や「評価」で、誰かわからない「社会」から評価されるんじゃなく、今ここにいる「あなた」から「いいね」と言われたり「美味しいね」と言い合えたりする。

それを心からうれしいと思えるようになったのは、私が年を取ったからか、そういうものなのか?

ただ、確かなのは、自分へ承認の矢印が向かうより、自分も誰かを心から承認できて、承認がどんどん循環するくらいの方がずっと居心地がいいってこと

こういう承認の循環が広がる場に、これからも携わっていきたいなぁ。

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