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仕事人間だった。子育てだけをする自分を認められないくらいに。市原家の九州移住日記vol.2

突然ですが、仕事ってどんな存在ですか?

私はこの質問への答えが、産前と産後で大きく変わりました。正確に言うと、出産後すぐにガラリと変わったというより、少しずつ変わっていき、気づくともう、前までの感覚が信じられないくらいに大きく変化してた、という感じです。

私と同じように出産を機に仕事への向き合い方が変わったというひとは、たくさんいると思います。ただ私の場合、実際それで会社をやめてフリーランスになり、それが楽しかったし効率がいいような気がしたから夫にも「やめちゃえやめちゃえ」攻撃をして、夫も仕事をやめちゃった。「意識だけでなく仕事の環境がめちゃくちゃ変わった」という点が、めずらしいような気がします。

仕事人間、いや、会社人間だった私たちが、どうやって変身したのか、書きたいと思います。

朝から晩まで一緒に仕事をした2人が結婚した

私と夫は社内恋愛でした。夫が上司で私が部下。私はたいそう生意気な部下で、よくけんかしていました。

私も夫も、仕事人間でした。勤めていたのは婚活の会社。二十代後半から三十代前半の若手ばかりがいる婚活パーティーを企画運営する部署にいて、まあ、朝から晩まで働いていました。

まさしさんが入社したばかりの頃は50人くらいのいかにもなベンチャー企業でしたが、ライフデザイン事業を横展開していくことで業績を伸ばし、数年で社員は300人を超え、ジャスダック、東証二部、東証一部へととんとんと上場していきました

私が入社した時から夫のまさしさんは直属の上司だったのですが、正直、出会ったときはまったく男性的魅力を感じませんでした

まさしさんは今じゃ想像もできないくらいにしょっちゅうキレる。対話じゃなく、高圧的な態度で部署のメンバーをコントロールしようとする。痩せた体にピタピタのサイズ感のオーダースーツを着る、どんなに暑くても着こなしが乱れるのが嫌でジャケットを脱がないめんどくさいヤツだったのです。好きになるまで丸3年ほどかかりました。

見比べてみましょう。

今のまさしさん↓↓

昔のまさしさん↓↓

好みは分かれるかもしれませんが、私は、断然今の方が好きですね〜♡

「いけ好かないヤツ」を好きになったわけ

そんな人をどうして好きになったのか?

ちょうどその頃、2人とも新宿のイベント会場で働くことが多くなり、仕事が終わったあとみんなで飲みにいくようになりました。飲むとね、ふだんあんなにエラそうなまさしさんが、やさしく、ちょっとお茶目でいいひとなわけですよ。

「そのギャップがいいなぁと思った」というのがいつも話してるストーリーです。

(そして、私から猛アタックしました…)

でもね、ほんとのところは、あまりにも長く一緒にいたってのが大きいと思います

休日出勤することもあったから、週6くらいで、朝から晩まで一緒にいるわけです。終電を逃して、そこらへんでごはん一緒に食べて、タクシーで帰ることも。朝9時から日にちまたぐまで過ごす。もう、一緒にいる時間でいうと家族以上ですよね。

他の出会いが、はじまったり、終わったりしたけれど、結局その間もずーっと隣にいたまさしさんに惹かれていったんだと思います。

仕事は自分の存在理由で、自分の存在価値は仕事だった

ちょうど昨日、この記事を書くにあたって「まさしさんにとって、あの会社にいたころ、仕事ってどんな存在だった?」と聞いたら

「存在理由だった」と即答でした。

それに、私は納得しました。

「あの頃は、仕事しかしてなかったってのがあるよね。仕事のことしか考えてなかったし。趣味もない、時間もない。やばいやつだったよね。」

たしかに。そうだった。

「自分の存在理由が仕事だったし…自分の存在価値も、仕事にしかなかった気がする」

私も夫も、仕事で成果を出すことをひたすら求めて、仕事で認められるために必死でした。

それはそれで楽しかったんですけどね。同年代が多いチームで、サークルのような雰囲気で。会社も伸びてたから、業績も給与も上がっていって。

私にとって、仕事はお母さんの代わりだった

夫にとっては、仕事は存在理由だった。じゃあ、私にとっては?

どこか、お母さんの代わりというところがあったように思います。

お母さん?意味がわからないですよねぇ。

私の母は、私が15歳の時に死んでいます。めちゃくちゃマザコンだった私は、それ以降、母親の代わりに私を承認してくれる対象を探し続けてきていました。

時にそれは学校の先生だったり、大学の教授だったり、恋人だったり。

二十代後半の私にとって、それは、仕事だった。

仕事で認められることで、自分の居場所を確保して、自分はこれでいいんだと、納得しようとしていました。

だから、必死で成果を出したし、評価に一喜一憂した。がんばってやったお手伝いに、母親から「えらかったね、ありがとう」と言われるのを待つこどものように。

出産で仕事を離れ、承認してもらう方法を失った私

そんな私が、母親になったのです。

出産し、育休に入りました。

子どもはかわいかった。

でも、どこか、家事と子育てだけをしている自分を認められないでいました

だって、私にとって、仕事が、承認欲求を満たす、源泉だったのです。

その仕事を、していない。

「効率的に、生産をすることがよし」とする価値観ですごしてきた私。その評価基準で、評価されることを目指してきた私。子育ても、家事も、その基準だと評価されないんです

ワンオペ育児のまっただなかで

振り返ってみれば、私は、じゅうぶんに、じゅうぶんに、がんばってたんですよ。

初めての子育てを、里帰りもせず乗り切りました。大阪に転勤中で、近くに知り合いもほぼおらず。まさしさんは朝8時に家をでて、日をまたぐぎりぎりくらいに帰ってくる。

精神的にはじゅうぶんに支えてくれたけど、実務はほぼすべて私が担っていました。

健康マニアなところがあるので、できあいのものを食べるのは嫌。ごはんをつくり、食べて、おっぱいをあげて、抱っこして。

まぁ、手を抜くとこは抜いてました。掃除はしなかったし、化粧もしなかったし、ごはんもスーパー手抜き。あと、夜によく寝る子だったので寝不足で死にそうってこともなかった。動画を見たり、クリスマスにはパーティーしたり遊びもした。

ギリギリの、地獄のような子育てってわけじゃないけど。そうラクしたわけでもない。

5日くらい、お風呂にはいれなかったことがあったのを覚えています。夜中にならないとまさしさんは帰ってこない。日中、娘が寝てる間にお風呂に入ろうとすると、娘が泣いてる声がした気がして、起きてしまったんじゃないかとかけつけてしまう。静かになると耳鳴りのように、娘の泣き声がする。まさしさんが帰る頃には、私は寝てしまっているし、私が入ってる間にもしも起きたらと不安。

夕方になると、娘の黄昏泣きがはじまりました。長いときは2時間以上泣き続けた。どうやったら泣きやむかわからず。今日、甘いものを食べ過ぎたからおっぱいの質が悪かったのか。刺激が強い音を聞かせたからかと、自分の行動に原因を見出して後悔したり。

子育ては、1人目の時から楽しかった!と宣言できる。でも、辛いこともあったし、大変ではあった。

完全なる、ワンオペ育児。

でも、私は何を思ったか、産後1カ月経たないくらいに、ビジネス書をメインとした大量の本を買って読み英語の勉強とサイトづくりをはじめたんです

子育てしかしていない自分を、認めないと宣言するように

こうやって振り返ると、私たち、変わりましたねぇ〜。

今、二人目が一歳と二ヶ月。精神的にも、実務的にも本当にラクになった。

私たちを変えたたくさんの出会いと、決断を、次回は書こうと思います。

>>市原家の九州移住日記vol.3

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