産後3ヶ月が経とうとしています。赤子を抱えての暮らし。
産後は毎度のことなのですが、気分が落ち込むことがあります。
それにはホルモンの影響が大きいんでしょうが、「生産性」が低い自分へのいらだちもある気がします。
「今日も、なんにもできなかったなぁ」
「みんなにしてもらってばかりで、悪いなぁ」
そんな想いが、ふんわりと、考えるでもなく、心のどこかにある、という感じ。
だけど、その感覚はもったいない、とも頭では強く思うので、今日ここで言語化して、自分自身に伝えようと思います。
「みんなは今日も働いてるのに、私は」
ついついこう感じてしまうんですよね。
1人目を産んだあとも思い、2人目を産んだあともまた思い、そして、つきっきりの時期が終わったころに「どうしてあんなことを思ったんだろう」と振り返っていました。
私たちは、効率や生産性の高さで、人や行為を評価するように、教育や社会人期を通して、習慣づけられてきた側面があります。
その価値観からすると、産後の時期って、短期的に見るとものすごく、価値が低くなってしまう。
広い時間軸、より広い社会を考えると、少子化が進む日本で、子どもを3人も産んで育ててるって、めちゃくちゃ価値があるんでしょうが…
でも、自分の「今ここ」の行動を、そんなに広い目で見られない。
なんとなく散らかっている空間に、自分への不満を感じてしまう
ごはんはどうしたって作るし、洗濯物は洗って干す。
(ごはんも、洗濯も、夫のまさしさんもやるので、私がサボってもなんとかなる)
追いつかなくなるのは、片付けと掃除。
私がほぼ一日中家にいるのに、そこここに物があって、床が汚れて、洗面台にサボった感があって、玄関に段ボールがある。
「まだやるべきタスクが終わってない」
のに、ソファで授乳して、そのまま腕で眠った赤子を抱えて座って、本を読んだり、スマホを見る自分。赤子を置くと、起きてしまう可能性が高くて、また一から寝かしつけをしないといけない。
みんなは動いてるのに、私だけ、動いてなかったりする。
そんなことは感じなくていいんだよ!生産性で人を評価する自分の価値観が貧困だ!
急ですが、こんなふうに言い聞かせてみようと思います。
マルクスが考える「富」は「商品」だけじゃなかった
また急ですが、最近、NHKの番組「100分de名著」でマルクスの資本論が取り上げられていました。
(名著を25分✖️4回で読み解くこの番組が私は好きでちょこちょこ観ているのです。この回の解説者は経済思想研究者の斎藤幸平さんで、この方が読み解くマルクス論が今、注目を浴びているんだそう)
その番組で語られていたマルクスの考える富とは、という部分が印象的でした。
「マルクスが考える社会の富」
- 空気
- 水
- 公園
- 図書館
- 知識
- 文化
- 技能
- コミュニケーション能力
富=お金というのが、考える間もなく前提になってしまっていた自分。
でも、豊かさをもたらすものを「富」であると考えると、それはお金に限らず、空気であったり水であったり、技能、コミュニケーション能力だって考えるのは、むしろ自然なことかもしれない!
私を包む「富」。私が生み出す「富」。
そう考えると、私は今、とんでもない「富」に包まれているし、ちゃんと「富」を生み出してもいることに気付かされます。
お金をじゃんじゃん稼いではいないけど。
掃除をちゃきちゃきこなせてもいないけど。
シェアハウスに帰ってしてくれたみんなに「おかえり」って言って。
たわいもない話を心から楽しんで。
子どもを育てて。
それだけでも充分じゃないか。
それに、子どもたちにとっては、私の存在自体がとんでもない安心や安全性やよろこびの根源であるわけで。そんな存在であれることの貴重さを認識して、よろこんでいればいいんだ。
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いいんだよ、と自分に、何度でも言おう。
誰かにも、いいんだよと伝え、受け入れられるひとになろう。
そんなことを考えた今日でした。